私は不自由な日常を生きてきました。
というのは、これまでの社会生活において、常に行列に並び、秩序を乱さないことを求められ、支配の中で理由も良くわからず小突き回され、自分が場違いなことをしていないか、いつもキョロキョロ、びくびくしていました。
例えば、私の小学校高学年の頃、転校で新しい小学校に通うことになったのですが、その小学校は荒れに荒れてました。いじめ、授業のボイコット、授業中に奇声を発して廊下を歩く生徒がいたり、先生ですら手がつけれない状況でした。まるで北斗の拳みたいな世界で、私は如何にいじめのターゲットにされまいと、友達に嫌われないようにはどうすれば良いかだけを考えて過ごしていました。
こういうのって間違っていると思うんですが、思うだけで、学生時代も、会社員としても同じようなものです。このまま50代になって、自分が嫌いな上司みたいになると思うとゾッとします。
ただ、私には週末の癒しの場所があります。そこはスポーツコミュニティなのですが、うるさいルールはないし、みんな平等だし、恐怖を感じることはないんです。ほんと周りもいい人ばっかりやし。
例えば、私は家族で参加しているのですが、スポーツが目的で参加してるのに、その場にいる人たちが親切で変な気も遣うこともないし、そこに居るだけで楽しい場です。一番驚いたのは、自分の子どもの相手をしてくれる方々が如何に多いことか!?普段の生活では決まった人としか交流が無いので、子どもの社交性を鍛える場としてもとても重宝しています。
そうはいってもそれは束の間、月曜日になるとまた会社にいかないと。
そんな私に転機が訪れたのは、ある日、スポーツコミュニティのメンバーと喫茶店で、私が「小さい子のお父さんに運動の指導法を教育したらいい」と思いつきでいってみたら、相手の人が「言うだけでなくてやったらいい」といってきたんです。そして、今存在しない小さい子向けの運動教室を創ることになったんです。
具体的には、「運動嫌いな子どもをなくすべく、親子で運動を楽しむ」をコンセプトとした誰もがイキイキできる場の提供をその人とあるべき姿から逆算して次にやることを組み立てて創っていきました。
この経験を通して、創ることから得られる喜びは、束の間の「癒し」とは別物で、持続的なものだと実感しました。
社会が良くなりますように、と「希望」するだけでなく、「夢」を描いて実現させていく、これは大変な「自由」です。
そして、私はこれをもっと拡大して良い社会を作ってみたい。あなたがもし、以前の僕と同じように不自由に苦しんでいるならば、一緒に創っていきませんか。そこでどうしても「自分の頭で考える」技能が必要になるのですが、その訓練をやるところから一緒にやりませんか。
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